日記

勘違いのせいで、小さな白いノートは二冊あった。白紙を埋めるのに頭を悩ませる。朝の、そして夜のルーティンにも、ノートを書く習慣がないのは、ついついまとめて書いているからだった。あの日は何をしていたっけ?何を思ったのだっけ?財布に残ったレシートを頼りにしてみても、あまり役に立たなかった。

「日記を書く」そんな習慣はなかった。嫌なことがあればきっと書く、それを記録しておくのも躊躇する。自分の字も好きじゃない。そもそも続かない。

三年前の春の日、あるきっかけから、これからの人生を考えるようになった。日記を書き始めたのはその日から約一年後のことだが、紐を解けばこの日があったからだ。いろいろ考えているうち、思いも変わっていく。そんな変化する自分を記録し、十年後、二十年後、過去の自分に会えたら少し面白いかなと思って、日記を書いてみようかという気になった。「十年日記」と記された日記帳は同じページに同じ月日を十年分書けるようになっていて、すぐに振り返ることができるのが特徴だ。これがいい。いやしかし、立派なものを購入する前に、最初は小さなノートを三年日記として使うことにした。一ページを三段に分け、一番下には日付を書く。
小さな白いノートは、今年の誕生日を迎えてから三段目に書くようになっていた。一年前、二年前の同じ日の日記をみると面白い。もう少し、内面的なことを記したかったはずだが、家族の出来事や気象情報など、「私」に触れていないことも多い。文脈も支離滅裂だ。

子供の昼食について考えていたある日、ノートの二段目に、昼食問題について書かれていたのが目に入った。内容をみて「今全く同じことを思った」と心の中でつぶやく。昼食については、作る作らないだけでなく、あれこれ面倒で億劫なのだ。娘は残り物で済ましてくれていることが多い。用意したものがあれば食べるし、タイミングによっては食べない。息子はといえば、残り物によっては物足りないし、だからといって自分で作って食べる習慣はない。難しく考えなくてよいはずなのに、一年後もまったく同じ思いでいるとは笑ってしまう。

小さな白いノートの裏には、ページの数が記されていた。その数をノートの枚数だと勘違いした。日記を書き進めるうち、一冊のノートに半年分しか書けないことに気が付く。二冊の小さな白いノートには、これからもっと「私」も登場させてみようと思う。