月と花

どの窓からも青い景色は見えなかった。ベランダに出て視線を上げると、ようやく隣接する家屋とマンションの間に細長い空が見えた。

ある日、マンションの前で空を見上げて、視線を動かしている男性がいた。

「どうされたんですか?」と私は声を掛ける。

「月を探していて。前はベランダから見えたんだけどね」

隣の住人である。一階にある住まいは、ベランダを出ると庭がある。庭の先のフェンスの向こう側は、十年近く前まで駐車場だった。その敷地内の集合住宅が取り壊された後、フェンスに迫るように一軒家が建ち並んでしまった。

「一日一回、月を見ていて」と恥ずかしそうに言った彼に

「ロマンチックですね」と私は答えた。

        ***

玄関の前で隣の住人に会う。一人暮らしをしている彼は私達夫婦より年配だ。

「これ、刈らないでね。白い花が綺麗だから」

マンションの一番奥に位置する我が家の前に、木が植わっている。その周りはドクダミが地面を覆っていた。この時期、白い花を咲かせる。
ここはマンションの敷地内にあるが、我が家の庭ではない。年に一度の業者の剪定作業の日を待っていられないので、夫と私で時々草刈りをしていた。

「蚊が来るので、刈ろうかなって思っていました」

笑って私は答える。ここはコンクリートのへこみもあって、水が溜まり、蚊が発生しやすい。蚊にとって環境がよい場所だった。玄関を開けると一緒に蚊も入ってくる。なにせ夫は蚊に敏感だ。

庭に蔓延るドクダミを刈る大変さもあったので、ここのドクダミもまた厄介に感じていた。隣の住人の庭は、ゴルフができるよう芝生になっている。生い茂る雑草とドクダミに覆われた我が家の庭とは大違いだった。
そういえば、庭のドクダミの葉を浸けたガラス瓶が、押し入れにあったことをふと思い出した。ガラス瓶の入った引き出しもまた、庭の雑草のごとく荒れ放題だった。ここはまた追々片付けることにしよう。

月をみて、花をみて、ゴルフを嗜み、遠くまで散歩に出かける、隣の住人は素敵な紳士だ。いつも「時間が足りない」と感じている私と同じ時間が流れている。

ドクダミの花がもう咲かなくなって、数週間経つ。「そろそろ刈りますね、隣人さん」と心の中でつぶやいた。