これから

いつまで続くのか、分からないのが厄介だった。その間、気を紛らわす手段もない。ソファーで横になって、ただじっと過ごす。気が付けば、朝になっていた。汗ばんだ体を起こして、水分補給する。
「大人になってから」は間違いないが、それがいつなのか、ある時期から頭痛持ちになった。

        ***

「年を取ってから」という言葉に変換されて頭の隅に残っていた。「子供が巣立ってから」か「定年を迎えてから」か、もしくは違う表現だったかも知れない。年齢的には50~60代を指す。‘’そこから「片付け」を始めても、気力も体力もなくなっている‘’ということが、どこかの待合室で手に取った雑誌に掲載されていた。
まだその年齢層には届かない頃、目にした内容だったが、気が付けば子供は成人し、もう五十になる年になっていた。

頭痛のほかには、腹痛にも悩まされる。生理痛、冷え、食べ過ぎと、こちらは原因が分かっているものの、毎月何かしらある。そして「片付け」を妨げる。
頭痛も腹痛も、子育てに奮闘していた頃はなかった記憶がある。いつしか、頭痛、腹痛と付き合うようになり、これからは気力、体力もなくなっていく年齢に差し掛かるのだと思うと、いろいろと考えることが多い。「片付けられない」という悩みを取っ払って、「これから」を過ごすのだと、意気込んではいるが遅々として進んでいない。
そんな矢先、いつもの腹痛とは違う痛みに襲われた。年齢を重ねるということは、身体の不調と付き合う確率も高いということだ。

「これから」どう過ごしたいのか、再度自分に問う。

旅に出る

“かわいい子には旅をさせよ”
今頃、トラックに揺られているのだろう。片道切符しか持たせていないあの子達と、今後二度と再会することはない。

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連日、近くのコンビニに通っていた。もう三日目には慣れたものだった。初日は若い店員さんに丁寧に教えてもらう。小包に伝票を貼る前に、まずレシートと同じ感熱紙に印字された伝票を、シールのついた透明フィルムに入れる。老眼鏡は持参しなかったが、恐らくあっても同じだっただろう。フィルムに切れ目があるのだが、それを探すのが困難だった。手間取っていると、「黒い線のところです」と店員さんは声を掛けてくれる。
基本郵便局への持ち込みをする。郵便局とのやり方の違いに戸惑ったが、レジに行く前にマルチコピー機とやらで発券することも、二日目からスムーズにできた。
フリマアプリ「メルカリ」を再開してみた。今年最初に出品したのは梅雨時期だったはずだ。二か月近く経ち、ようやく買い手が見つかった。それから、最近出品していたものも、次々と買い手が見つかる。郵便局とコンビニに小包を持って行く日々が続く。

不用品の行く先は、「ユニクロのリサイクルボックス」か「不用品を引き取ってくれる店」か「リサイクルショップ」、そして「メルカリ」のどれかだ。
「不用品を引き取ってくれる店」は寄付という形で値段はつかない。売上金を環境活動のための資金としている「エコの店」だ。

洋室の一角に残った不用品は、「メルカリ」行きのものがなくなった。あとは自転車を漕いで、残りの三か所に持って行くだけだ。俄然やる気が湧いてくるも、腹痛が私の行動の邪魔をする。薬を服用すれば、ましになるものの、どんよりした気分は続く。それでも腹痛が少し収まったところで、一番近いところに出向いた。つい先日も行った「エコの店」だ。その帰りにはスーパーにも寄った。夕食の食材を買うためではない。作業台に設置している容器に、鈴の絵が描かれた小さな紙を入れてスーパーをあとにする。

ここのベルマーク箱は、近くの小学校の名が入っている。子供たちの出身校ではなかった。別のスーパーに、子供たちの出身校が設置したベルマーク箱が置いてあったが、今ではもうなくなってしまった。出身校で役立ててほしいと、以前は頑なにそこへ持って行っていた。そういうところが私にはある。役に立つならどこの学校でも良いのに。子供たちが小学校を卒業しても、ベルマークを食器棚の隅っこで集めていた。また一つ、片付く。

メルカリの発送元にもこだわりがあった。コンビニでは出荷の反映が遅く、保管場所の環境に少し不安があったので、郵便局か配送会社の営業所へ持参していた。でも近いに越したことはない。
小さな紙袋に収まった、かわいいぬいぐるみは二匹ともコンビニに預けられ、それぞれ遠方に旅に出た。トラックに揺られ、そろそろ新しいお家に着いただろうか。

日和

ベランダから見る細長い空は、一面雲に覆われていた。湿度を示す数字は高かったが、嫌な感じはしない。開け放した窓から入る風が、連日の暑さを忘れさせてくれた。

「夏の風物詩」は一匹だけではなかったようで、気付けば合唱をしていた。一旦静かになるも、また鳴きだす。昨日とは打って変わって気温がぐっと下がったこの日、彼らの声は似つかわしくなかった。

蝉の声にどうにも集中できずにいた。パソコンに向かった視線は、時折外に目をやるが、だからといって蝉の居所を確かめるわけではない。午後になっても、なお鳴き続けている。命短し彼らは懸命に生きているのだと理解する。

集中できないのは、蝉の声だからというわけではない。音がする空間では、いつでもそうだった。無の世界で没頭したいと常々願っている。

所狭しと干した大量の洗濯物は、今日は恐らく全部乾ききらないだろう。だが、自転車でユニクロに行くにも、玄関前のドクダミを刈るにも、ちょうど良い日和だった。そんな機会もどれ一つ活かせず、そのうち頭が痛くなって、気付けば夕方になっていた。

今週は、洋室の一角を一掃する予定でいた。結局、完了せずに平日の終わりの金曜日を迎える。集められた不用品は一部処分できたが、まだある。和室の押し入れから出した書類も、すべてここに持ってきた。こちらもまだある。

来週は何日和になるだろうか?また気温は戻る。
異常な暑さからも片付けからも早く解放されたかった。

月と花

どの窓からも青い景色は見えなかった。ベランダに出て視線を上げると、ようやく隣接する家屋とマンションの間に細長い空が見えた。

ある日、マンションの前で空を見上げて、視線を動かしている男性がいた。

「どうされたんですか?」と私は声を掛ける。

「月を探していて。前はベランダから見えたんだけどね」

隣の住人である。一階にある住まいは、ベランダを出ると庭がある。庭の先のフェンスの向こう側は、十年近く前まで駐車場だった。その敷地内の集合住宅が取り壊された後、フェンスに迫るように一軒家が建ち並んでしまった。

「一日一回、月を見ていて」と恥ずかしそうに言った彼に

「ロマンチックですね」と私は答えた。

        ***

玄関の前で隣の住人に会う。一人暮らしをしている彼は私達夫婦より年配だ。

「これ、刈らないでね。白い花が綺麗だから」

マンションの一番奥に位置する我が家の前に、木が植わっている。その周りはドクダミが地面を覆っていた。この時期、白い花を咲かせる。
ここはマンションの敷地内にあるが、我が家の庭ではない。年に一度の業者の剪定作業の日を待っていられないので、夫と私で時々草刈りをしていた。

「蚊が来るので、刈ろうかなって思っていました」

笑って私は答える。ここはコンクリートのへこみもあって、水が溜まり、蚊が発生しやすい。蚊にとって環境がよい場所だった。玄関を開けると一緒に蚊も入ってくる。なにせ夫は蚊に敏感だ。

庭に蔓延るドクダミを刈る大変さもあったので、ここのドクダミもまた厄介に感じていた。隣の住人の庭は、ゴルフができるよう芝生になっている。生い茂る雑草とドクダミに覆われた我が家の庭とは大違いだった。
そういえば、庭のドクダミの葉を浸けたガラス瓶が、押し入れにあったことをふと思い出した。ガラス瓶の入った引き出しもまた、庭の雑草のごとく荒れ放題だった。ここはまた追々片付けることにしよう。

月をみて、花をみて、ゴルフを嗜み、遠くまで散歩に出かける、隣の住人は素敵な紳士だ。いつも「時間が足りない」と感じている私と同じ時間が流れている。

ドクダミの花がもう咲かなくなって、数週間経つ。「そろそろ刈りますね、隣人さん」と心の中でつぶやいた。

行動履歴

<「彼女にはアリバイがあります」
そう言わせる自信があった。証拠は財布の中に山ほどあった。>

        ***

これで四回目だった。店員さんが毎回違うことが、せめてもの救いだ。しかし親切心を無下にするにもほどがある。
「ポイントカードが未登録のようです。ポイントをお貯めすることはできますが、ご使用にはなれませんので、、、」
会計時にコンビニの店員さんが言う。印象に残る客に違いない。今まで何回も未登録のポイントカードを提示していた。親切にそう教えてくれた四人の店員さんに、申し訳ない気持ちだ。気付いていないが、実はその後も同じ店員さんに接客されているのだろう。同じ人が二度言わないのもまた、親切心なのかもしれない。次回行くまでに登録をしよう。
⦅すぐ、せえへんよな⦆

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つい「不揃いバウム」を購入してしまう。豊富な味の種類から選ぶのは毎回楽しい。レジの順番が近くなり、「あっ」と気付く。レジ前に置かれた「不揃いバウム」が、さっき売り場で気付かなかった「夏季限定の味」だったからではない。クレジットカードをまだ入れ替えていないことを思い出したからだ。
この店でしか使わないクレジットカードだった。カードの有効期限はまだ先なので使えないわけではない。前回と前々回、クレジットカードが機械に反応せず、店員さんを手間取らせていた。ただ私もどうすることもできないわけだが、実はセキュリティ強化の目的でICチップ付MUJI Cardが送付されていたのだ。新しいカードなら恐らく問題なく機械に反応するだろう。カードのサインも求められずに済むのだから、お互い、もうひと手間省けるのだ。
反応の悪い旧クレジットカードを使う、印象に残る客を回避したい。ドキドキしながらレジを見守る。今日は大丈夫だったようだ。次回行くまでに入れ替えておこう。
⦅すぐ、せえへんよな⦆

        ***

昨日の晩御飯は?と聞かれても、サッと出てこない。今週、何曜日の何時に何をしていたかと聞かれても尚更である。しかし、万が一アリバイとやらが必要ならば、簡単である。大概行くところは決まっていた。近所のスーパーか薬局。財布の中のレシートを時系列に並べれば、過去の私の行動が見えてくる。紙袋をひっくり返せば昨年、一昨年でも追うことができた。
⦅レシートってアリバイの証拠になるん?⦆

書類整理に取り掛かり始めた日から、数か月が経つ。まだ終わっていなかったが、レシートはごみ袋の中だ。残念ながらもう過去のアリバイは証明できなかった。

平日と休日

平坦な道を10分ほど歩いたところで、まだ目的地までの半分の距離だった。ここからはずっと上り坂になる。あと少しで坂の終わりだというところで、私と同じ服を着た子達が続々と坂を下ってくる。「今日休みだって」という声が聞こえた。
台風や雨の影響で学校が休みになることがあったが、当時どういう条件が揃えば休みだったのかは、今では知る由もない。なぜか家を出たあとに引き返すことが度々あった。一歩外に出たらテレビからの情報が絶たれ、誰かが知る最新情報を手に入れるまで情報が更新されない、携帯電話のない時代だった。せっかく上った坂に体力を無駄に奪われたが、学校が休みになる喜びに勝るものはなかった。

        ***

週に一度、夫が持参する「おにぎりと水筒」を用意しない日があった。その日を迎えると明日は休みだなと改めて認識する。それはカレンダー上の休みであり、また夫の休みの日でもある。どこにも属さない私は「平日」に仕事があるわけでもなければ、「今日は休みだ」と私自身の「休日」だと、意識する日はなかった。
「平日」と土日祝日の「休日」は区別をしている。月曜日から金曜日までの「やることリスト」は、度々赤い線で消されぬまま残される。次、実行しようとする日は翌週の月曜日から金曜日である。私自身の予定は「休日」には入れない。家の用事も基本「休日」にはせず「平日」に済ます。残った「やることリスト」は土日を挟むと「やり遂げることができなかった」という思いで、また一段と宿題の重さを増す。

私の行動日は平日週五日、祝日があれば週四日。一週間は七日あるはずである。休日の予定はいつも決まっていない。土日祝日は夫の「休日」ではあるが、休日を丸ごと休む日はほとんどなく、大概仕事をする。かといって、仕事をしているときに私が平日のように過ごせるかと言われれば、リズムが異なりそうでもない。今は専ら「片付け」のことしか頭になかったが、平日も休日も「私の意思」に耳を傾けたい。一週間の過ごし方を変えたいと考えている。

今年に入って夫の希望で用意していたおにぎりは、これまた夫の申し出で半年ほどであっけなく終わってしまった。水筒だけは継続していて、夏でも温かいお茶を持って行く。今まで持参していなかった金曜日も必要になり、月曜日から金曜日の「平日」に水筒を用意する。「平日」の翌日に「休日」が来る。

子供たちの成長に合わせて変化をする「休日」の過ごし方は、もう家族単位ではなく、夫婦単位となっていた。子供たちは「休日」を自由に過ごす。平日と休日の区別なく、家族で過ごす日を決めて、その日を「休日」にするのはどうだろう。「大人」だけの家族である。家族の「休日」は毎週でなくてもいい。
ふと、病院で休日診療だからと特別料金だったことを思い出した。平日と休日の区別はここにもあった。
ここ数年のうちに、我が家にはいくつか訪れる岐路がある。夫の定年、20代の息子・娘の自立。そして私もまた変化の訪れを知らせる鈴の音がだんだんと近づいてきている。家族の在り方が変わっていく。素敵な「休日」を過ごせる家族の形に、そう変わる日がやって来るはずだ。警報が出るほどの雨でなくても、雨の日は家族みんなで「休日」にしてしまうのも、自由で楽しいかもしれない。

蒔いた種を狩る日まで

外に出ると思いのほか、風が強かった。自転車のペダルを踏む足に力が入る。長い髪が後ろになびく。まだ家を出たばかりだったが、橋に差し掛かったところで、橋の向こう側は異世界と言わんばかりに「もう引き戻すことはできない」と脳内で指令される。私は果敢に挑むヒロインのごとく、前へ進む。そういう設定にでもしないと、ただただ目的地までの距離を長く感じるしかなかった。目的を果たすと、すぐに同じ道を戻る。風向きが変わった。

        ***

少々うんざりしていた。やることが山ほどあった。「片付けの終わり」が遥か彼方にある。常に「片付けたい」気持ちが頭の中を支配している。そして常に「片付け」をする。いつになったら解放されるのだろうか。
傍からみたら、ちゃんちゃんらおかしい話だ。「片付けられない」ことは公言していて、皆知っているとはいえ、いつまでゆめ子は片付けをしているのだろうと。

『ゆめ子さん、前向きな気持ちでやっとたけど、やること終わらんで疲れてきたん?』

「みぃ、やることがたくさんあって終わるのかな~って。❛❜今年こそは!❛❜って毎年言ってるから言いたくないんだけど、片付けも気にせず穏やかな年末は過ごしたいよね。そう思うと時間が足りないような気がしてきて」

『大丈夫やって。少しずつやってるやん。まぁ❛❜考えな進まんこと❛❜が後回しにはなってるけどな』

「そう、それが多いのよ」

片付けは「元に戻すだけ」とシンプルなはずだ。しかし「元」を決めてもリバウンドを起こし、「元」がなかなか定まらないものもある。すべてのものが一斉に「元の位置」が決まっているという状態にない。それ故「家族の協力を得る」にも基盤ができていなかった。どこに何を置くかを決めているのは「私」であり、はっきり決められないのも「私」である。「❛❜どこに何があるか❛❜を家族全員が共有していること」も片付けの目標の一つでもある。

「片付けの終わり」を迎えてようやく次のことが考えられるようになる。「片付けられない私」が「片付け」をしやすい収納を考えるには、随分時間がかかる。行動の一つ一つは私が蒔く種であり、きれいに花を咲かせるわけではない。庭一面を覆う雑草のように雑然としている。繰り返し生えないように狩るには根っこから刈らなければならない。

         ***

いるかいらないかではなく、今使ってるか使ってないかで判断するというのはよく耳にする話だ。意識すると処分の対象になるものが随分ある。洋室の一角にある、二段に重ねた引き出し収納の上には、ついこの前まで書類が置いてあった。今は押し入れから出た不用品を積み重ねてある。

『❛❜考えんでもできること❛❜からやってるけど、外に行かなあかんやつはなかなか進まんよな、まぁ天気の都合もあるしな。けどこの前から置きっぱなしになってる不用品、そろそろ持って行こか?』

そう、何度も断念していた。今日が金曜日だったことも手伝って、重い腰を上げて行くことにした。

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橋を往復して、一番近くの「ユニクロ」へ行く。リサイクルボックスへ不用になった衣類を入れたら、すぐさま戻ってきた。行きも帰りも向かい風を浴びて、自転車を漕ぐ足がつらい。汗だくになって帰った私は水分補給する。帰りの橋の上で次の行動を決めていた。足に張り付いたジーパンを脱ぐ前に、洋室の一角から紙袋を持ち出し家を出た。

        ***

ユニクロ」と「不用品を引き取ってくれる店」の二軒を回ることができた。今日の「私」を褒めることにした。やはり気持ちがすっきりする。後ろ向きな気持ちに引っ張られ、うんざりしていた気持ちが少し前向きになる。やはり気持ちよく新しい年を迎えたいと思う自分がいた。