平日と休日

平坦な道を10分ほど歩いたところで、まだ目的地までの半分の距離だった。ここからはずっと上り坂になる。あと少しで坂の終わりだというところで、私と同じ服を着た子達が続々と坂を下ってくる。「今日休みだって」という声が聞こえた。
台風や雨の影響で学校が休みになることがあったが、当時どういう条件が揃えば休みだったのかは、今では知る由もない。なぜか家を出たあとに引き返すことが度々あった。一歩外に出たらテレビからの情報が絶たれ、誰かが知る最新情報を手に入れるまで情報が更新されない、携帯電話のない時代だった。せっかく上った坂に体力を無駄に奪われたが、学校が休みになる喜びに勝るものはなかった。

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週に一度、夫が持参する「おにぎりと水筒」を用意しない日があった。その日を迎えると明日は休みだなと改めて認識する。それはカレンダー上の休みであり、また夫の休みの日でもある。どこにも属さない私は「平日」に仕事があるわけでもなければ、「今日は休みだ」と私自身の「休日」だと、意識する日はなかった。
「平日」と土日祝日の「休日」は区別をしている。月曜日から金曜日までの「やることリスト」は、度々赤い線で消されぬまま残される。次、実行しようとする日は翌週の月曜日から金曜日である。私自身の予定は「休日」には入れない。家の用事も基本「休日」にはせず「平日」に済ます。残った「やることリスト」は土日を挟むと「やり遂げることができなかった」という思いで、また一段と宿題の重さを増す。

私の行動日は平日週五日、祝日があれば週四日。一週間は七日あるはずである。休日の予定はいつも決まっていない。土日祝日は夫の「休日」ではあるが、休日を丸ごと休む日はほとんどなく、大概仕事をする。かといって、仕事をしているときに私が平日のように過ごせるかと言われれば、リズムが異なりそうでもない。今は専ら「片付け」のことしか頭になかったが、平日も休日も「私の意思」に耳を傾けたい。一週間の過ごし方を変えたいと考えている。

今年に入って夫の希望で用意していたおにぎりは、これまた夫の申し出で半年ほどであっけなく終わってしまった。水筒だけは継続していて、夏でも温かいお茶を持って行く。今まで持参していなかった金曜日も必要になり、月曜日から金曜日の「平日」に水筒を用意する。「平日」の翌日に「休日」が来る。

子供たちの成長に合わせて変化をする「休日」の過ごし方は、もう家族単位ではなく、夫婦単位となっていた。子供たちは「休日」を自由に過ごす。平日と休日の区別なく、家族で過ごす日を決めて、その日を「休日」にするのはどうだろう。「大人」だけの家族である。家族の「休日」は毎週でなくてもいい。
ふと、病院で休日診療だからと特別料金だったことを思い出した。平日と休日の区別はここにもあった。
ここ数年のうちに、我が家にはいくつか訪れる岐路がある。夫の定年、20代の息子・娘の自立。そして私もまた変化の訪れを知らせる鈴の音がだんだんと近づいてきている。家族の在り方が変わっていく。素敵な「休日」を過ごせる家族の形に、そう変わる日がやって来るはずだ。警報が出るほどの雨でなくても、雨の日は家族みんなで「休日」にしてしまうのも、自由で楽しいかもしれない。