リズムを上手く刻むこと

網戸越しに見える庭の雑草が、日陰でゆらゆら揺れていた。それとは違い、手前の雑草は太陽の光を浴びて微動だに動かない。室外機の熱風で揺れる雑草は、敷地の向こう側に建つ家のエアコンの稼働を知らせてくる。窓を開け扇風機で暑さをしのぐ私は、雑草の成長ぶりを見て喉の渇きを増す。午後にはこちらの室外機も稼働するだろう。エアコンをつけても消しても、快適とは言い難かった。洗濯物が乾かないと言っていた梅雨の時期は、梅雨明け宣言によりあっけなく終わってしまった。夏が到来した。

 

所属している先があっても、必ずしも毎日通うとも限らない。それに高校生までの学生のように、朝から夕方まで留守にしているともいえない。成人している息子も娘も、ただ外出の予定がない時間、家にいるだけだ。
所属先すらない私もまた、家にいる時間は長い。外出予定がなければ家にいるのだから同じである。あちら側からすれば、パートを辞めた母が家にいるようになったともいえた。こちら側はようやく片付けの時間が持てたのにと、リズムが掴めずにいることにモヤっとしていた。
湿気の鬱陶しさや、熱中症のニュースが毎日流れるほどの暑さや、家族の生活リズムに翻弄されていては、いつまで経っても何もできない。それに加えて「やる気」を待っていては、条件が揃うのは難しい。朝早く出勤し夜遅く帰ってくる夫も、いづれは生活スタイルが変わることも想定しておかなくてはならない。いつなんどき、誰でも、違うリズムを刻むことがあるのだ。不愉快な音を刻むより、調和しているほうが望ましい。

リズムを合わせたり、何かを譲り合ったりしているつもりが、一方が、なんなら両方が不満を残すこともある。何かをすることの負担の大きさも人によって違う。それらを知らないままということもある。

「大人」のカテゴリーにいる人ばかりが生活する我が家。生活リズムをあわせるのではなく、協調性を持ち、融通し合うというのがしっくりくるのかも知れない。

「片付けられない」私は「片付ける」前に、あれこれ考えてしまう。このリズムの中で、今できる「片付け」をこなしていくことが、「片付けの終わり」への近道である。